弁護士作成の陳述書。
Y・Iさん
1982年7月、夏風邪をこじらせた当時3才の息子【りょうくん】をかかりつけ医に診せたところ、「肺炎かもしれんのでレントゲンを撮ります。動かんように、お母さんが両手を持ってて下さい」と言われた。案の定、初めてのレントゲンに脅えた息子は暴れだし、私は左右の手をしっかりと握った。幸い肺炎は見られずホッとしたその日の夜、息子が「手が痛い!」と泣き、見ると、彼の左肘が正視できないほど青黒く変色、いつもの二倍以上に腫れあがっていた。明らかにレントゲン撮影の際、握ったせいだと思われたが、そんなことが原因で内出血するとは信じられなかった。
翌朝、かかりつけ医に飛んで行ったが、医師も判断できず、日赤を紹介され、そのまま日赤へ。
日赤の医師も、一目見て、「すぐ入院して下さい、とにかく検査します」と有無を言わさぬ口調で私に告げた。その日は7月7日だったので、病室には、七夕飾りがベッドの横に飾られていてホッコリしたのだが、短冊に書かれた願い事を読んだ私は打ちのめされた。
「おうちに帰れますように」
「〇〇ちゃんの脳が元通りになりますように」
「歩きたい」
検査漬けの日々の後、医師から「血友病の疑いがあります」と宣告されたものの、当時の私には「血友病=血の止まりにくい病気」という認識しかなく、たしかに乳児の頃から紫斑状の内出血を繰り返し、小さな出血でも止まりにくかったりしたのだが、それが血友病の症状だと指摘する医師は周りにはいなかった。
奈良県立医大病院で「重度の血友病A」という確定診断を受け、アイデンティティカードを交付されたにも拘らず、私には、血友病の本当の恐ろしさがまだ分からなかった。それよりも、その頃新聞で見た小さな囲み記事が頭を離れないでいた。
「アメリカで原因不明の奇病が発生。男性同性愛者、麻薬中毒者、血友病患者を中心に流行の兆し」
AIDSの第一報だった。
息子の主治医は血液専門の小児科医だったので、他の医師より早くAIDSの知識を得ていて、入院当初の治療にはクリオ製剤を使ったものの、同年10月の足の内出血の治療には、クリオが入手できず、コンコエイト、コンファクトエイトを使わざるを得なかった。
息子の細い血管に注射針を刺しながら、医師は、「大丈夫や」「この薬は大丈夫や」とつぶやいていた。自分自身に言い聞かせるように。私は、幼い患者を励ます言葉と聞いていたのだが、普段明るく朗らかな彼の顔に浮かんだ暗い表情を見て、言いようのない不安に脅えた。
そして、医師の願いもむなしく、その二度の注射で、息子はAIDSに感染した。