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2021年  S.A.さん

 S.A.と申します。90歳を迎えました。大臣協議で息子のことをお話しする機会をいただき、今日は福島からやってまいりました。


 私の息子は、1985年4月17日に亡くなりました。28歳でした。桜の頃になると、息子のことを思い出します。桜は私にとって悲しい思い出です。今年で三十七回忌を終えたところです。


 3歳の頃から血が止まらず、地元の医大で検査を受け、血友病と診断されました。息子は絵が好きな子で、戦車、戦闘機、バイクなど、何も手本を見なくても、細かい所までソックリ描いていました。授業中にも描いていたもので、よく先生に叱られたそうです。また、発明工夫展では、趣味が深く、度々賞を貰ってきました。


 学校を休むと、友達が給食のパンを届けてくれました。良い思い出です。修学旅行にも行けませんでしたが、友達が買ってきてくれた東京土産を大切にしていました。

 本人の望む進路は設計技師でしたが、私は病院の先生のそばで働ける検査技師を進めました。息子は、主治医の励ましの言葉に救われて、自分の道を選び、臨床検査技師を目指しました。私自身、いつまで元気でいられるか判りませんので、思い切って東京での一人暮らしをさせることにしました(血液製剤ができたおかげで)。


 学校では色々と面倒を見ていただき、友達にも恵まれて、幸せ一杯の息子でした。修学旅行にも行けなかった息子が、友人に連れられて箱根に旅したと聞きました。さぞかし嬉しかったことでしょう! 見習い期間の実習は病院だったので、私としては安堵しておりました。
 

 自分がHIVに感染していることは、医師との話の中で感じ取っていたのだろうと思います。発症する前、私は「覚悟はできているの?」と尋ねたことがあります。息子は、「考えている」と答えました。どんな気持ちでいたのでしょうか。
 

 検査技師の資格を取得し、保健衛生協会の正社員として採用されてからは、一日も休むことなく頑張っていましたが、1985年の2月末頃より変なセキが続くようになりました。3月8日に医大を受診すると、先生から「肺が真っ白です。四日くらいの命です」との宣告を受けました。私は頭が錯乱して、何が何だか判りませんでした。


 即、入院。次の日には集中治療室に移りました。当時は、「血友病+血液製剤=エイズ」という時代です。看護婦さんもあまり近寄ろうとしないほどで、それからは苦しみの連続でした。


 病院は、検査を熊本大学に頼んだようです。治療方法も判らず、肺気腫に進みました。学校時代の息子は、肺に関して良く勉強をしたと聞きましたが、自分自身が肺の病気で苦しめられることになりました。
 

 亡くなる前はかわいそうに話せなくなり、わら半紙にメモをして会話をしました。そのわら半紙は、今も取ってあります。時には「課長に会ってきた。明日、仕事に行く。今日帰る」と書いたり「苦しい。もう殺してくれ」と書いたりしていました。人工呼吸器をつけて、ただ生かされていました。最後に涙をぽろぽろ流して亡くなりました。
 

 希望を持って仕事をしていた息子。多くの人たちからお世話になり、人様のお役に立てず、旅立った息子の無念さ。40日間の苦しい苦しい闘病生活でした。
 

 病院ばかり通っていたので、苦しい思い出が多いのです。血友病の関節の痛み、苦しみは大変なもので、産まなければ良かったと思ったこともあります。注射のおかげで痛みが止まったことも事実ですから、複雑な思いがあります。
 

 息子は可愛くて可愛くて、病気が治るなら何でもしてあげようと思っていました。親より先に逝ってしまったので、いつまでも忘れられません。思い出すと、涙があふれて辛くなります。「産んで申しわけなかった。ごめんなさい」と私はいつも心で詫びています。
 

 薬害の恐ろしさを痛感させられました。
 

 息子が亡くなったあと、翌年の地元の新聞には、「エイズで初の臨床報告 血液学会で発表」という記事が出ました。そこには、息子の死亡日、年齢までハッキリ書いてありました。勤め先の人には、息子のことだと判ったのではないかと思います。人の気持ちを尊重してもらいたかった。息子を解剖した先生は、「学」はあっても人の心を治す人ではありません。
 

 厚生労働大臣そして厚生労働省の皆様、どうか薬害の起きない薬や注射を良く良く調べて認可して下さい。
 

 ありがとうございました。

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