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2016年  S.F.さん

 私の夫は、1993年、48歳で亡くなりました。夫は第8因子欠乏症、血友病Aの患者でしたが、軽症だったので、怪我をしたり、歯を抜いた時などに血が止まりにくいことはあったものの、夫自身も、父も母も、血友病であることは知りませんでした。もちろん私も、そんな事とは夢にも思っていません。一人の息子、二人の娘にも恵まれ、夫はサラリーマンとして働き、人一倍頑張り屋さんでした。走るのも速く、歌も上手いし、私が言うのも変ですが、かっこいい人でした。

 夫が血友病と判ったのは、十二指腸潰瘍のために手術をした33歳の時でした。何日も出血が止まらず、血液製剤――非加熱凝固因子製剤を打ちました。それ以外には一度も注射をすることもなく、エイズの問題が騒がれるようになってからも、特に気にしていませんでした。帝京大の安部医師がテレビに出ているのを見ると、〝ウチら、このころに注射打ったなあ。でも、あれが悪いものやったら、もう死んでしまっているやろ〟と話していました。その頃は知識がなく、感染したら即エイズで死亡すると思っていました。

 

 夫が44歳の時、大学病院の先生よりHIV感染を伝えられ、愕然としました。偏見と差別の中、何も言葉に出来ず、ただジッと耐えていました。患者、家族、遺族、誰でも通り過ぎていることでしょうけれど、想い返すと心が痛く、辛く悲しい日々でした。糖尿病も治療していたので、大学病院の先生が来られている近くの病院を受診した時、診察室に付き添って行くと、カルテに赤鉛筆で「エイズ」と横文字で書かれていました。さすがに私も我慢できなくて、〝先生、これ? 私だって読めますよ?〟と言いました。先生は〝ウーッ〟と言いながら、上から赤鉛筆で塗りつぶしていました。もちろん入院時は使い捨ての食器、完全防備でした。顔見知りの方も働いている病院、やりきれない思いでした。エイズ発症前の出来事です。

 

 透析、免疫力低下、大学病院への入退院の繰り返しとなりました。発症後、看護師さんが誤って注射針を指に刺してしまったことがありました。その瞬間を私も見ていましたが、パーッと投げ捨て、一目散に部屋から飛び出して行かれました。今でもその姿は忘れられません。悔しい思いと、看護師さんの気持ちも判り、落ち込む日々でした。幸い看護師さんは、感染はされていませんでした。

 

 その頃、私は介護の仕事に就いていました。退職して看病をしなければと思いながらも、同居の夫の両親、三人の子供を養うためには、仕事を辞めることは出来ません。夜勤の日もギリギリの時間に病院を出て職場に行き、業務をしていると冷や汗が出てきました。夜勤が明けると、50分かけて病院へ戻ります。眠気が襲ってきて、コーヒーを飲み、車から下り素足になって足踏みしたりしました。夫にも弱気を見せられず、車の中で悔しくて、心細くて、どれだけの涙を流したか。必死に病院通いをしました。

 

 それまで、自分がストレスを抱えるなんて考えもしなかったのに、HIVと知らされてからは眠れない日々、血圧は上がり、不整脈と動悸、体重も減りました。子供達に励まされて、何とか乗り越えようと頑張りました。死が目の前にあり、夫と二人で不安な日々を過ごしていました。夫は朦朧として話も出来ない時もあり、私は誰にも言えず一人で抱えていました。夫が亡くなった前後の事は、思い返せば苦しくてお話しが出来なくなってしまうのでやめておきます。その後は、仕事、子育てと忙しく過ごしていました。ある日、心筋梗塞に襲われ、救急車の中で「脈が取れません」と聞こえた時、息子に「延命治療は要らない」と二回ほど言ったことを覚えています。

 

 何年かが過ぎ、初めて遺族交流会に出席しました。それまでは、行く気持ちが起きなかったのです。何度も案内をいただくうちに、参加してみようかなと思うようになりました。遺族の皆さんがどうして暮らしているのか、知りたくなりました。緊張して、電車の中で胸がドキドキしていました。それぐらいの思いで参加しました。今まで、遺族の活動にも知らん顔して参加していなかった、申しわけなかったと思いました。エイズで死亡したことが、自分にはすごく重荷でした。

 

 同じ遺族であっても、自分よりももっと大変な人が居られます。他の方の苦しみは、本当には判りません。交流会では、これまでの事を振り返ることが出来ます。相手の人に自分の事を知ってもらった上で聞いてもらえます。起きた事は解決しないけれども、話しているうちに、もう一度想い出し、だんだんに消化されて行きます。遺族にとって、意味のある機会だと思います。

 夫の事情については、入院中の尋常でない対応に感づいた息子には、問い詰められて話しました。夫が亡くなってからは、夫の弟と自分の妹には思い切って話しました。長女と次女には、追って長男から伝えました。話した人が増えると、気が楽になってきます。でも、周囲では誰にも話していません。話せません。法事の時などに昔話をしたくても、病気の事に触れられそうになると、しゃべりたくてもしゃべることは出来ません。友達同士でも、〝大変やったろうなー。早う亡くなりはったなー〟と言われても、それ以上、〝何で亡くなったの〟と聞かれたり、HIVに触れられたりするのを避ける想いから、話題に出来ないのです。 〝もし誰かに洩れたら〟と思うと、恐くて話せませんでした。今思い返すと、息子を亡くした義理の父母の悲しみはいかほどのものか、私は考えることは出来ませんでした。

  〝血友病は遺伝〟、〝エイズとつながりがある〟、自分は敏感になっていました。亡くした家族のことを普通に話したいという想いはあります。隠さずに話が出来れば、気持ちが楽になるのではないでしょうか。もちろん私ばかりではなく、遺族の皆さんに多かれ少なかれ共通する心のしこりではないかと思います。遺族の方達と話すことで、少しずつ気持ちが楽になります。相談員の方に親身に話を聞いてもらえて、救われています。

 夫が亡くなってからの私は、仕事が生き甲斐でした。娘達も働くようになり、海外旅行を一緒にしたり、愚痴ったり、相談したり、子供に癒されました。娘も気遣ってくれていたのだと思います。その娘達も結婚し、子供も生まれました。二人の娘の息子、私にとっての孫達は、夫と同じ軽症の血友病でした。娘を通じて遺伝することは判っていましたが、重い物を背負わせてしまった。心配は消えません。これからの血友病患者には、夫に襲いかかったような出来事が決して起きないことを願うばかりです。

 

 私は64歳で退職し、現在は、義理の母、長男一家と一緒に住んでいます。近所で娘達の家族も暮しています。保育園のお迎え、学童保育のお迎え、塾の送迎、家族旅行、93歳の義母や孫との日帰り温泉などなど、出来る事を探して生きたいと思っています。私に何が出来るか、人の役に立てる、頼りにされることも生き甲斐の一つです。二人の5歳の孫の成長につれ、老いを見直す準備期間と思っています。自分の予定をゆっくりと自分で組めるよう、前向きにプラス思考で過ごして行きたいと思います。話を聞いてもらえる子供が居る自分は恵まれ、今は幸せだと感じる瞬間もあります。

 でも、いつも心の奥底にある辛い想いが消えることはありません。


 

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