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2023年  Y.K.さん

 Y.K.と申します。今日は大臣にお話を聞いていただきたく広島から参りました。坐って失礼します。

 

 私は、広島県の江田島で生まれました。今年で84歳になります。男4人、女8人、12人きょうだいの下から二番目でした。江田島といいますと、大臣も御存じかと思いますが、昔は海軍の兵学校が有名でした。私が国民学校一年生の時、原爆も経験しました。B29の音が聞こえると、防空ズキンをかぶって、自分で山の防空壕へ逃げるのです。原爆の時は、広島のほうがピカッと光ったことを覚えています。
 

 私は見習い看護婦として10年ほど働いてから、土木の仕事をしていた夫と結婚しました。そして、今日も一緒に来ております娘、二歳下に長男、八歳離れて次男、三人の子供に恵まれましたが、1971年に生まれた次男は血友病でした。親戚にも誰もおらず、病気が判ったのは生後半年ばかりの頃です。カゼを引いて近くの小児科に行った時、耳から採血され、血が止まりませんでした。はじめ広島大学でも原因が判らず、山口医大に紹介されて血友病と診断されました。

 

 関節の状態はあまり悪くなくて、活発で、のちに小学校の運動会ではリレーの選手になったこともありました。でも、色々な出血があって、頭に大きなコブが出来たり、ほっぺたが腫れて引かなかったり、鼻血もひどくて、一杯飲み込んだ血を吐いたりもしました。家族の中では次男と私がAB型だったので、私の血を何度も輸血したこともありました。
 

 四歳頃から血液製剤の注射を受けるようになりました。幼稚園をどうしようか、心身障害センターに相談しましたら、〝床の間に飾っておきたいならそうしなさい、息子さんの人生がなくなってしまいますよ〟と言われました。幼稚園に頼み込み、親も協力してくれるのであればと受け入れてもらえて、前もって注射をしながら運動会も遠足も参加しました。


 小学校に入ってからも元気に過ごしていましたが、肝機能の数字がハネ上がって、入院しなければいけなくなりました。家では長男が高校受験の時期でしたが、何の面倒も見られません。個室で外ばかり眺めて点滴している次男の様子を見ていると、私は、〝生きていてもしょうがないかな〟と思う時もありました。
 

 〝この子だけ殺すわけには行かんから、自分も一緒に死んだほうがいいか〟と思ったことが何回もありました。でも〝ダメじゃ。母さんは大人になってるけど、ボクはまだ大人になってない、やりたい事が一杯ある〟と言われて、この子のために、みんなのために生きないといかんと思い直したのです。でも、それ以来、次男は18歳で亡くなるまで、ズッと肝炎に苦しめられ、入退院を繰り返すようになりました。

 

 中学校では、遠足も修学旅行も無理だと恐がられて行かせてくれません。抗議して、親がついて行く、ホテルを別に取って待機する、前もって注射をして、車にも積んでおくと言って、ようやく参加することが出来ました。高校もなかなか入れてもらえなくて、送り迎えなども協力する条件で私立高校へ入学しました。欠席が多い割には、勉強は出来ました。何でも〝する、する〟と言って、意地っ張りで努力家でした。薬剤師を目指していて、バイクの免許も取り、自動車学校にも行きましたが、最後は通えなくなりました。
 

 だんだん病状は進み、体力がなくなりました。いつも「しんどい、しんどい」と言って、脾臓が腫れて、日に日に顔色が悪く、土色になって行きました。〝外に出るのが嫌い〟と言いながら、それでもバイトに行ったりもしていました。私は、〝長くは良う生きれんだろうから、人生楽しませてやろう。一生涯分のことを遊ばそう〟と思ったので、好きなように何でもさせました。次男は、仕事の関係で夫が持っていた船に乗ることが好きで、自分でも乗りたがり、自動車はダメでしたが、小型船舶の免許を取りました。最後の最後、夫の船と一緒に海へ出たことがあります。次男が運転した船には娘が一緒に乗りましたが、途中から水が漏れて大騒ぎになりました。思い出に残る出来事です。

 

 息子は、1989年の9月30日に亡くなりました。どす黒い顔で、鼻からも耳からも黄色い液が出て、血を吐きました。最後に外泊をしたがり、病院からは無理と言われましたが、家に帰りました。〝なつかしい〟と言って、点滴をしたまま、二階の自分の部屋へ階段を上がったのです。そして、部屋に居たいからポータブルトイレを買ってきてくれと言いましたが、熱が高くなって痙攣が起き、救急車で病院へ戻りました。最後には〝誰も恨んでないよ〟と言ってくれていました。
 

 次男が亡くなってから、私はどうしていいか判らなくなりました。血友病ではありませんでしたが、長男も重い病気を抱えていて、1998年に35歳で亡くなりました。夫は息子二人を失って鬱状態になり、毎日仏壇の前に坐っていました。私は、子供や夫を犠牲にした、不幸にしたと考えていると息が苦しくなりました。


 次男が亡くなってしばらくしてから、はじめは夫が、それから私も、広島大学のK先生のカウンセリングを受けるようになりました。全部聞いてもらえて、気持ちが楽になった。〝カウンセラーと思わず、緊張せずにオープンに話して下さい〟と言われて、広島弁丸出しで話しました。文章を書いたりもしました。〝良く頑張った〟と思って下さったのかなと思います。誰にも話せなかった事を話せると違います。おかげで助かりました。その夫も、13年前に78歳で亡くなりました。


 独りになった私は、遺族の集まりも、はじめはしんどそうで行きませんでしたが、娘も一緒に行くと言ってくれたので、最近は参加するようになりました。他の遺族の話を聞いて、〝みんな大変だったんだね。自分だけじゃないんだね〟という気持ちが湧いてきて、だいぶん気持ちが軽くなった気がします。

 

 命を助けてもらうために血友病の薬が出来たのに、薬害HIVのために結局命をなくすことになりました。責めるというよりも、厚生省がその薬を許可したことに悔いが残ります。仕方なかったことかもしれないけど、仕方ないと言われて済む問題ではありません。私たちは、自分の子供はじめ大勢の命が絶たれた、薬害HIVによって、悪い言葉ですが殺されました。広島弁で言ったら、〝はがいい〟のです。
 

 〝はがいい〟というのは、共通語では歯痒いですが、ちょっと違うのです。悔しい、切ない、腹立たしい。もっと調べてくれれば良かったのに、色々やってくれたのだろうけど、どうして許可されたのか。後から判っても、新しい薬が出来た時にはもう遅い。もうちょっと遅く生まれていれば、息子は助かったのにという気もします。18歳で青春もなく、〝産んでくれなければ良かったのに〟と言われる親の辛さは、運が悪かったでは済まされません。いい薬だと思って、治そうと思って打ったものが死を早くした、それが何とも言えません。遺族のために、もっと何かしらの手当てが出来ないのだろうかとは思います。


 次男が生きていれば、今年で52歳になります。楽しかった事を思い出せばいいのに、苦しい時の事を思い出します。おかしいのです。楽しもうと出かけても、頭の中では〝ケガしないように、ケガしないように〟ばかりでした。皆さんも同じでしょうが、心休まる時はありませんでした。そんな遺族の想いを改めて大臣にお伝えしたいと思いました。
 

 ありがとうございました。

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